2008年06月24日

以前にも触れましたが、私は  「現在のオーケストラ界の常識になっている非常識」  的な内容を扱った本を出版予定です。 もう原稿の大半は執筆済みなのですが、出版社の選択等のため現在色々交渉中といったところで足踏みしています。

先日の定期演奏会には、その関連で何人かの出版関係の方が来られたのですが、その中のお一人から本日(23日)頂きましたメールをここに添付させていただいて、それを基に少し私の考えを書かせていただきたいと思います。

その方とは去る2月に、勤務されているある有名出版社で私の本を出版することの可能性を探るため、何回かのメールのやり取りをしました。 その結果、たまたまその方は、ピリオド奏法やそれに関連する諸々が私と全く正反対の考えをお持ちの方(しかも相当強固)であることが判明、その結果一度もお会いしないまま何か険悪な雰囲気のままやり取りが途切れてしまうという経緯がありました。

しかし嬉しいことに、その方が先日の演奏会にお出でくださり、昨日次のようなメールをいただきました(私のお礼メールのお返事として)。 私のことを良く書いてくださっているから添付したというのではありません。それはこのブログを最後まで読んでいただければお分かりになられるでしょう。

「内藤 さま             ご丁寧なメールを頂戴し、恐縮しています。 

こちらこそ、素晴らしい演奏に感謝を申し上げます。
ピリオド演奏であるとか、ないとか言う議論は超えた名演奏でした。
内藤さんのなかにあるメンデルスゾーンが実に良くわかる、美しい響きと見事な造形の演奏でした。
  

このような『イタリア交響曲』体験は初めてで、『フィンガル』ともども唖然としました。
オーケストラも実に見事な技量でした。
士気が高いことは一目瞭然。
これからがますます楽しみですね。
一度、メンバーの方々とお話がしてみたいほどです。
                                                                                                                                      私見ですが、内藤さんの演奏の素晴らしさは、多分「ピリオド演奏様式」だからなのではありません。    

僭越ながら、貴兄は「現代の普通な演奏様式」でも、その才能を発揮されることでしょう。
もちろん、信条として「ピリオド様式」でおやりになることは、結構だと思います。
どんなスタイルでも、一聴衆とすれば、「感動」があれば他には何も言うことはありません。              

 朝比奈スタイルのブルックナー。あれも最高に感動的でしたから小生には素晴らしい「記憶」となっています。

カラヤンで聴いた1973年の「第7」も、ヴァントで聴いた1987年の「第8」も、それがハース版であれ何であれ、感動的な記憶です。
楽譜の「原典」は原点であり、学問的な考究はぜひとも必要なことでしょう。
しかし、印刷された楽譜を使って朝比奈やヴァントらが演奏している以上、彼らが「ハース版」に忠実に演奏したからと言って、あるいはヴィブラートをかけたからと言って、批判はできないように思います。
彼らは彼らの信条に従って音楽に忠実だったと思うのです。                

 

また、内藤さんの演奏を楽しみに出かけて参ります。
どうかますますの感動的な音楽を。
失礼いたします。」                             

 

くどいですが、私のことを良く書いてくださっているから添付したのではありません。
この文の中で私が一番注目したい箇所は
私見ですが、内藤さんの演奏の素晴らしさは、多分「ピリオド演奏様式」だからなのではありません。
僭越ながら、貴兄は「現代の普通な演奏様式」でも、その才能を発揮されることでしょう。
です。
私はこのメールに書いてある                   

ピリオド演奏であるとか、ないとか言う議論は超えた名演奏でした。
内藤さんのなかにあるメンデルスゾーンが実に良くわかる、美しい響きと見事な造形の演奏でした。
このような『イタリア交響曲』体験は初めてで、『フィンガル』ともども唖然としました。  

を、まさに狙って指揮したのです。 良くここまで見抜くことが出来たものだと彼の鋭い感性と知識に感服しました。これらの曲を良く知っている人は、そのほとんどの人が唖然としたことでしょう。 その理由の半分は、聴き慣れない澄んだ、活き活きしたピリオド奏法の響と表現方法であったからであり、残りの半分は、彼が指摘されるとおりピリオド奏法云々を超えた次元のもので、私が「通常の演奏」法でやったとしても、これらのお客様は結構唖然とされたと思います。 

自分で言うのも何なんですが、通常の名演奏でもなかなかできない独自の表現法に運よく?成功したからだと思うのです。 年内にも発売予定のCDをご期待くださいませ。              

 

なぜ今日このメールを転載させて頂いたのかは、この部分にあるのです。 私はピリオド奏法に出会う前から常々超一流の演奏と言われるものにも不満を持ち、「なぜあんなに歌えない、フレージングも中途半端であり叙情のかけらも感じられない・・・」と思ってきました(他の聴衆のブラ―ヴォの嵐の中でも)。

 この不満を何とかしなくてはとの想いが化学の教師から指揮者への転向を決意した最大の理由であり、その後何十年も私の生き様を支えてきてくれたような気がします。                
指揮者の表現意欲、天分といったものはもちろん演奏の出来に非常に大きな影響を与えるものですが、私はまずはそれを除いた、指揮者とは直接には関係のない、各奏者の持っている表現意欲とそれに直接関連する表現テクニック(主に弦楽器の)の問題を挙げてみたいのです。           

 

私は、本の原稿にも書いたのですが、オーケストラ奏者がヴィブラート依存症に陥ってから現在に至るまでの百年近くの間に、それまで二百〜三百年かけて培われてきた弦楽器の弓使いによる伝統的音楽表現法の多くが失われてしまい、それにつれ弦楽器奏者自らが音楽を表現するためには具体的に何をどうしなければならないかと問うことすら、無意識のうちに放棄してしまってきていると考えています。             

なぜなら自分ひとりでヴィブラートをかけて演奏していると、その本人は、自らの演奏がすごく綺麗であり、しかも豊かに音楽を表現できているという錯覚に陥りやすいらしく、その結果それまでの伝統テクニックを使った右手による弓の微妙かつ無限の音楽表現の必要性が徐々に忘れ去られれていったのです。

 そしていつのまにか後から言いますように超一流のオーケストラを含め世界中ほとんどすべてのオーケストラ奏者が私が言うところの棒弾きになってしまったのです。    
  
 そしてその結果、本来の伝統的奏法を教えられる先生もいなくなり、ベルリンフィルだウィーンフィルだといってみても、彼らからは19世紀までの伝統スタイルのほとんどが消え去ってしまったのです。 現在のウィーンフィルの世界一美しいと言われてきたモーツァルトも(私も大好きでした)、伝統様式に基づいたものとは全く無縁で、ここ百年近く前から始まった、私の言うところのヴィブラートウィルスに感染してしまった結果生まれてきた新興表現様式に過ぎないのです(モーツァルトが聴いたらびっくりするでしょう)。          

 

  きわめて甘美な、叙情的な表現をしようにも、右手の弓使いが棒弾き(棒読みから派生した無感情に弓を動かす弾き方)になってしまっては心に伝わるわけがありません。 世界中のほとんどすべてのオーケストラに飛び火していったその(棒弾き)習慣は、しかしいつの間にか社会的に認知されるようになり(良いも悪いもその奏法以外なくなったのですから当然でしょう)、指揮者もオーケストラの表現とはそんなものだ、それが限界だと無意識に思うようになってしまったのです。           

 

私はピリオド奏法で当団の定期演奏会を何度も経験し、今また、メールを頂戴した彼の意見を私なりに読み、ようやく、このことに気づきました。    

 

  それまでの疑問点「なぜあの有名オケで有名指揮者が振っているのにあんな程度の表現しか出来ないの?」は、第一に弦楽器奏者が基本的音楽表現法を捨ててしまった、あるいは初めから習ってこなくなってしまい、それで世の中が通るようになってしまったという、私が考えつく一番低次元で残念な理由が原因だったのです。
 
なぜそこまで考えが飛躍するのかとお思いになられる方もいらっしゃるでしょう。 あるいは我田引水じゃないかと。 でも、すみません、これは今まで長年考えて来、研究を重ねてきた下地があるからこそ言わせてもらっているのです。
人の心に染み入る叙情の表現は、すごく音楽性を持った指揮者に強烈に導かれたピリオド奏法が一番です。 今のままの「現在の奏法」では、私の言う次元での叙情的演奏は不可能です。
ヴィブラートの多用により次元が下がってしまった叙情性はじめ各種表現力も、ヴィブラートという、すべてを同じ色に染めてしまう、あるいはすべてに同じ色のベールをかぶせてしまう表現方法を取っ払えば、はるかに高められ、ストレートに心に伝わってくるでしょう。
ひとつ例を挙げてみましょう。 緩徐楽章で長めの音符を弾く時、通常のオーケストラ(奏者)はその音符にたとえ‘表情豊かに’との指示があっても、まず何の表情もつけようとしません。 いえ、正しくは具体的にどう演奏したらよいか迷ってしまい、結果としておそらく作曲者の意図ほどの効果は出せずに終わってしまうでしょう。
前述の如く、今ではそういう弓使いの習慣がほとんどなくなってしまったからです。 もちろん左手は懸命にヴィブラートをかけるでしょう。 でもそれだけなのです。 少し極端に言わせていただきますと、それだけが唯一の‘表情豊かに’に対応する弦楽器奏者の対応方法になってしまったのです。 どんな一流オーケストラでも。 
 奏者は、ヴィブラートを懸命にかけることにより一生懸命音楽を表現している気になり、指揮者も彼らに向かい必死に、‘歌って’というヴィブラートのマネのようなことをするだけで、表現出来ている気になっているのでしょう。 
作曲家の意思と当時の伝統を無視したヴィブラート多用の、遅くたっぷりとした演奏に聴衆はブラーヴォと言うのですが、たとえ長いフレーズがうまく取れていたとしても、テンポが遅い場合、感受性のある人間は、一つ一つの長い音符の歌い方に音楽が感じられなければ、どうしても興ざめしてしまいます。
その点ピリオド奏法では、左手でほとんど表現が出来ない代わりに、昔から、右手の弓使いが、徹底的に研究され、長めの音符の場合そのひとつの音価のたった1秒か2秒の中にも各種の音楽表現を駆使することによって、きめ細かい叙情的表現が可能になるのです。 いえ、正しくは可能にするためにさまざまな表現方式が編み出されていたのです。
この奏法こそが伝統的な弦楽器本来の基本奏法であり、当時の人は多かれ少なかれ皆そういう表現が出来たはずです。 だからこそヴィブラートの華麗さがなくてもクラシック音楽はどんどん受け入れられ、広がっていったのです。 もし右手がものを言わない「現在の奏法」で、ただヴィブラートだけをとった演奏をしたらまるで初心者集団となってしまい、衰退の道をたどることでしょう。 
このように二十世紀になり、ヴィブラートの華やかさに焦点が移っていくに従い、その輝かしさばかりが表に出て、基本の音楽はすたれていったのです。
本当は、指揮者がそのへんのところをわきまえて、たとえベルリンフィルを振る時でも、彼らは本来のヴァイオリン奏法を知らないのだということを前提として、たとえヴィブラートをかけていたとしても、それと平行して右手もかってのピリオド奏法のように、現在は休眠あるいは死んでしまっている彼らの右手を甦らせることに成功すれば、世界最高の表現(演奏)が出来るはずです(もっともその前に、プライドの塊のような奏者の反感を食らわないよううまく持っていけさえすればのことですが・笑)。 
実際ピリオド奏法のイロハも知らないままの彼らに、その良さを理解させうまくその長所を出させるよう導くことは想像を絶する困難を伴うものでしょう。
しかし、一旦本気で理解を示せば、才能ある彼らのこと、あっという間にその素晴らしさを聴衆に示してくれることでしょう。 全体的演奏レべルは百年前よりずっと上がっているのですから。
私はこういったことを想い、かつ色々試行錯誤しながら実践を積み重ねてきた現在、これら奏法の違いは何ももともと水と油であった訳ではなく、たまたま21世紀初頭である現在のレベルではそう映っているだけで、もうしばらく進歩していった先には、これらの特徴を良いとこ取りした、今までのクラシック音楽界になかった、新しい画期的奏法が生まれてくるような気がしてならないのです。
すなわち、ピリオド奏法でしか表現できない数々の音楽を内在し、その上に一部現在も使われているヴィブラートが、現在のように何でもかんでものべつまくなく同じようにかかるのではなく、しっかりと極上のスパイスのように吟味された上でうまく隠し味的に加味され、その上に最新の発達した科学的視点も加わった三位一体的奏法、これこそ、現在世界中誰も知らない最も理想的な、しかもどの時代のスタイルにも正しく対応できる理想の演奏法になる気がしてならないのです。
私は近い将来、こういったまだ誰も到達していない理想的、核心的奏法を生み出し、世界をアッと言わせるかもしれません。
まだピリオド奏法を始めてから数年しか経っていない私ですが、このメールを下さった方の眼力を信じ、「現在の奏法」の良さを存分に取り入れた「ピリオド奏法」、すなわちとても綺麗な天にでも上るような音色とハーモニーで、しかも適度に重みもあり、涙の止まらない叙情性と、激しい原色のストレートな躍動感等々、良い意味で音楽を表現するすべての形容詞があてはまる独自の良いとこずくめのピリオド奏法を世界に先駆けて確立させていきたいとの想いが、今までの多くの経験や、皆様からのご意見(時には反面教師的に使わせてもらうこともありますが)をエネルギー源として、私の中で加速度的高まって来ています。 
決して両者の妥協的方法ではなく、両者の良さだけを持った奏法です。 
周りの方々の暖かい協力の下、幸い私はその夢の実現がしやすい立場に立たせてもらっている気がしています。 夢を実現させたいです。 
    
どうか今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

  

  

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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