2009年01月5日

私は3歳から小学校を卒業するまで、才能教育でヴァイオリンを習っていました。いわば私が音楽家になった原点ともいうべきお稽古事でした。その先生が喜寿を迎えられるということで、今月11日(日)のお昼に名古屋(私の出身地)で、OBOGや現役生徒もヴァイオリンを手に集合し、お祝いの会が開かれるという案内が昨秋来ていました。半世紀ぶりでのヴァイオリン教室の集いで、ぜひ参加したいところでしたが、残念ながらちょうどその日の同じ時刻に東京ニューシティの定期が東京であり、参加できません。とっても残念です。それで、先生や現役の生徒さんのお母さんたちに向けてメッセージじみたメールと懐かしの写真を係りのお母さんに送りました。それをこのブログの場を借りて添付します。私の半世紀前の一端のご紹介?

 吉田好美先生、このたびは喜寿を迎えられましたこと心よりお祝い申し上げます。そして『吉田好美先生の喜寿のお祝いの会』のお世話役の方々、本当にご苦労様です。本来ならば先生の最初期の弟子として真っ先に馳せ参じなければならないところですが、私は、現在オーケストラの指揮者をやっておりまして、ちょうど同じ日の同じ時刻に東京で本番がございます関係でどうしても伺うことができません。まことに残念至極でございます。時刻が昼と夜とでもずれていれば絶対に伺うところなのですが。    

 

 私は‘団塊の世代’の最初で、現在61歳になります。3歳の時から親に無理やりヴァイオリンを習わされ()?、小学校を卒業するまでそれなりに頑張ってきました。当時は昭和二十年代半ばで、まだ戦争の後遺症が色濃く残っており、ピアノを買うなんてことは夢のまた夢の時代でした。今だったらひょっとして私はピアノを習わされていたかもしれません()。そういう理由もあってか、当時はヴァイオリンのお稽古が特に流行った時代だったと思っております。       

 

 

 

 最初は吉田先生のお父様でいらっしゃいます余語仁三郎(漢字が合っているか不安ですが)先生に習っておりました。確か先生の助手的な感じで余語好美先生にも習い始め(大久手かどこか、だったと記憶していますが違うかもしれません)そのまま好美先生の生徒になりました。おそらく小学校の3年生ぐらいだったと思います。

 その後、先生が独立されて才能教育の名古屋支部(当時)の先生に正式になられ、東山教室が始まりました。今も東山教室という名が残っていることを今回知りまして、大変懐かしく思っております。

 その最初の弟子の一人が私でした。今から思えば全くへたくそとしか言いようのない劣等性でしたが、できたばかりの教室でしたので、いつも私が一番先の曲を習っており、そういう意味では(あくまでも才能とか演奏レヴェルではありません)教室頭だったのかもしれません。    

 当時は固定したレッスン教室がなく、私の家がレッスン場所であったり大西さん(現在62歳と59歳になる娘さんが習っていらっしゃいました)宅であったり。そこでは教室の発表会の会場も兼ねていました。昭和30年代初めのことです。当時腹をすかせた私たち餓鬼どもが、レッスンが遅くなった時に出前のラーメンをとってもらい(まだ当時は出前なんて贅沢なことは日常的ではありませんでした)、一緒に食べた時の支那竹の味が今でも忘れられません。       

 

 

 

 ちょうどその頃先生がご結婚され、苗字が余語から吉田へ代わられました。先生が結婚される前にデートされているところを私の母が偶然拝見し、レッスンの時に冷やかしていたことを覚えております。年上女房だから、そのうちに先生は若い女性の方が・・・、などという不謹慎なことも冗談めいて言っていたことも覚えています。当時ろくにその意味も分からない小学生だった私なのですが・・・。

 とにもかくにも喜寿になられるまでご無事で添い遂げられてこられたのだから、「心配無用だったよ」()、と天国の母には報告しなければなりません。今そんなたわいもないことを思い出しながら一人でほくそ笑んでいます。

 その後本山の交差点近くにありました教会の離れを借りて本格的な教室へと育っていったと記憶しています(私が家の事情?でレッスンをやめるまで)。先日(1217日)に私が朝日カルチャーセンターで講座を持った時、受講生として参加してくれた渡辺信久君(学校の同級生であり、吉田先生のお弟子さん)と半世紀近くぶりに偶然お会いし、講座の後、二人の共通の話題で大いに盛り上がりました。彼もお父様の余語仁三郎先生時代から一緒だったそうで、半世紀前とはいえ、お互い昔のことは良く覚えており(現在の記憶力は・・・()ですが)東山教室の共通の話題を確認して楽しい時間を過ごしました。    

 その後いつまでその教会での教室が続いたのか知りませんが、教会そのものが移転したのでしょうか、いつの間にかなくなってしまい、それを機会に私の子供時代の才能教育の記憶は遠くへ行ってしまいました。もちろんマスコミを通じて知るその後の才能教育の発展は嬉しく思っていましたが。       

 

 

 

  添付で当時の写真をお送りしました。小さい子供だけが一列に並んでいる写真は、昭和26年のもので、私がもうすぐ4歳になる頃の初舞台です。向かって一番右の男の子が私です。       

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大人数で写っている写真は、鈴木慎一先生が指揮をしていらっしゃいます(当時の私には随分おじいちゃんに映っていたのですが、良く考えますと、現在の私よりも若かったはずです!?。 その後ろの、グランドピアノの先端にいらっしゃいます、大人の男性の最前列の方が、たぶん吉田先生のお父様の、余語仁三郎先生ではないかと思います。先日吉田先生から頂きました年賀状には先生のお写真が載っていたのですが、何十年かぶりでお写真を拝見して、お父様の仁三郎先生に随分似てこられたと思いびっくりしました。何しろ私の記憶の中には、三十歳前の先生のイメージしかなかったので。

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 縦向きの写真は、右の子供が私ですが、たぶんまだ教会の離れにレッスン室が移る前の、誰かの家で行われていた東山教室の発表会の一場面です。       

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 子供と親が十数人整列して移っているものは、余語仁三郎先生の弟子時代の写真(昭和30年頃)で、左から3人目の帽子をかぶっている子供が私ですが、右から二人目の子供(肩に手をかけられている子供)、は私の友人で、旭丘高校時代の同級生であり、音楽部でも一緒でした新実徳英氏です。現在の日本の作曲界をリードしている、もう大家といっても過言ではない大作曲家です。彼は先回の愛知万博の一環として、政府から委嘱され、「白鳥」というオペラを名古屋で初演しました。記憶に残っていらっしゃる方もおいでではないでしょうか。その時の作曲家です。合唱作品は特に多く、合唱をやっている人で彼を知らない人はいないでしょう。彼は東大の機械科を出てからの転進であり、私は今ノーベル賞で旬の名大理学部の出身です。受賞者3人の中で私の直接の同門の先輩が一人、七年前には授業でお世話になった先生も受賞されました。私たちは一見全く無関係な畑からの音楽家への転進ですが、その背景には当然才能教育での音楽との出会いが厳然として存在しています。これなくして二人の今はありません。もちろんその後の色々な音楽との偶然的出会いも現在に深く関わっているのですが、私たちのように直接ヴァイオリニストの道ではなくても音楽畑で、あるいは直接音楽畑でないにしても各方面で小さい時才能教育で音楽に触れた人たちが直接間接に影響を受け、それぞれの世界で大活躍しています。       

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今子供さんたちのお世話で大変なお母様方、私の随分歳の離れた後輩たちをよろしくお願いします。皆様のお子様たちは将来どの道に進まれても、いつの日か必ずや才能教育で育んだ‘何か’が役に立つ時が来ることでしょう。そう信じてファイト!       

 

 

 

 吉田先生。次の‘米寿を祝う会’には何を差し置いても参加しますのでよろしく!

 追伸)私の宣伝のようになって申し訳ございませんが、残りの添付のひとつは音楽雑誌『音楽の友』の昨年11月号に載りました私の紹介記事です。現在の私が指揮者として力を入れている内容が紹介されています。

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 もうひとつは、今月末に毎日新聞社から出版される拙著の表紙をスキャンしたものです。拡大してその帯を読んでいただけると分かりますが、今私は世界のオーケストラ界に向けて身の程知らずの大兆戦をしようとしています。誰でも知っているようなオーケストラの有名曲の演奏に、考えられない誤りがいっぱい見つかり、まだ知らないままでいる大指揮者や超一流オーケストラにに向け警鐘を鳴らす内容になっております。一流音楽家がいまだ知らないことですから、かなり専門的です。しかし専門家しか理解できないないようですと、買う人が限られてしまい、毎日新聞社としては採算が取れなくなってまずいという訳で、‘音楽好きの誰でもがついてこられるような書き方にしてくれ’とのきついお達しが来ておりました。その結果、皆様ならおそらく理解していただけるであろう書き方を採用することになり、その範囲の中で‘エッ、嘘、まさか!’ってびっくりするような内容が盛りだくさんに書かれております。ひょっとたら、日本のクラシック界でこの本の内容をめぐって大論争が起こるかもしれません。

 実は、‘喜寿を祝う会’と同じ日の私の東京でのコンサートに間に合うよう、一部の部数のみ印刷が早くなされることになっています。もし前日までに間に合いましたら、宅配便で当日会場着でお送りします。間に合うかどうか今のところ全く分かりませんが、もし運よく間に合いましたらご笑覧くだされば幸いです。全国の本屋(大きい)で今月末に出版されます。¥2,300(税別) 
内藤 彰(東京ニューシティ管弦楽団音楽監督)   

コメント (2)

  1. 渡辺です。

    好美先生の遅メシのときに一緒に出前してもらったラーメンのにおい!よかったなあ。

    当時最高の贅沢!

    今はトンコツだとか、いろいろ流行っていつようですが、僕にとってはラーメンといえばあのときの匂いなのです。

    親がバイオリンでなく、ピアノを習わせてくれていたら・・と僕は今も思いますが、しかし当時ピアノなんてどこの家も買えなかったですね。

    学年でも確か、家にピアノがあるのは女の子のS.S.さんのとこぐらいじゃなかったかな・・・。

    それでバイオリン。北野の時代からJAZZが好きだったので、友人の中島と学校でJAZZ談義ばかりしていました。放課後に二人で学生服のままキタのJAZZ喫茶に入ろうとして「高校生はアカンよ」と追い返されたことがあります。

    そして50歳のころ、定年後を考えて渋谷のミュージックスクール
    でウッドベースを習いました。これはバイオリンに較べれば単純で簡単、屁みたいなもの・・と思ってはじめましたが、バイオリンが5度ー5度ー5−度なのに対し、BASSは何と4度ー4度ー4度。

    10年演った今でも、ソロで隣の弦に行った時に、しょちゅう1音間違えています。
    それに低音は音程がとりにくくて、高めに弾いてしまい、いつのまにか半音ぐらい上にズレてしまいます。

    簡単な楽器というものはありませんん。

    コメント by 渡辺信久 — 2009/1/9 金曜日 @ 12:40:00

  2. ブログ、うれしく拝見。内藤郁夫さん彰さんのこと鮮明に想い出します。可愛かったわ。
    大西の小母さんです。こんなに立派になられてお空の母上様どんなにかお喜びのことと存じます。
    しばらくお教室に使っていただいたことを書いていただきありがとうございました。娘の年もピッタリ。2人とも男一人女一人の子持ち。私も87歳になりますけど、まだまだ元気です。清住町の家で二女一家と一緒に住んでおります(前の川はなくなりました)。あなたの著作をさっそく入手。むつかしそうですが、拾い読みさせて頂き、だんだん面白そう。ゆっくりひろい読ませていただきます。吉田先生にもお会いしたいと思います。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

    コメント by 大西の小母 — 2009/3/24 火曜日 @ 21:43:09


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